日本近代の出発は、明治憲法の西欧近代と超憲法的なものの儒教的伝統とに規定される二重体制だったのか?

吟味されることのない人生は人間にとって生きるかいがない。同様に、過去に何が問題だったのかを問うことがない現在は、共同体にとって依拠することができないと思う。日本近代の出発は、明治憲法の西欧近代と超憲法的なものの儒教的伝統とに規定される二重体制だったのか?この仮説を前提にすると、この両者が各々、天皇主権と天皇の死後の世界を主宰する権力(子安氏が指摘してきた荻生徂徠、後期水戸学の言説からの影響)に対応していたことがよく説明される。この点との関連でいうと、後期近代の現在、戦後憲法がその連続性を断ち切れずに覆い隠していた超憲法的なものも存在が露わになってきたのではないだろうか (日本会議靖国神社、安倍政権の歴史修正主義、国体的教育勅語の再評価)‬ 。新しい普遍主義の形で、外部から自己を再構成することが要請されているが、問題なのは、グローバル資本主義の分割である米国と中国とによって、東アジアの他との関係において自己の関係を自立的に確立する方向性が消滅してきたということ。国会で野党はこのことを安倍自民党に問い正すべきではないか、ただトランプのポチとなってもなんの意味もないよ、と。