イェイツ

アイルランドのゲール文芸復興運動の中心にいた、詩人ウィリアム・バトラー・イェイツの作品を理解するのに少しでも役立つかもしれぬと思って、彼が興味をもったサンスクリット語の初歩の初歩をダブリンの語学塾で二カ月ぐらい勉強する気になった。5000年前にあらわれてきたリグ・ベーダー。これについて全く無知なのに何か語るのが恥ずかしいし図々しいとも思うのだが、とにかく、持ち帰った資料をみると、文字が登場する後の時代に書き記した文の英語訳がある。May the truths which the scriptures proclaim live in me who am at one with Spirit. 私のようなものにも、これは、いかにも近代ヨーロッパが再構成した訳文であるとわかる。ここで一応このように読めるとして、教典を守れと言っているわけだが、今日における国会の政治家の演説にあるように、根本を為す教典を守れという意味を語る言葉に、なんか大きな力を感じる人が多いようである。これは、『論語』学而第二章を私に思い出させる。「有子はこういった。孝弟のひとにして、上に逆らうことを好む者はいない。...」。これは、継承者の立場から孔子の教えにある整理がなされている文だという。2500年前の孔子のオリジナルの言葉とおもわれているものにすでにポスト孔子の教説が書かれているのである。おそらく、リグ・ベーダーについて同様のことがいえるのか。古代中国も古代インドも原初のテクストを守れという。だけれど、孔子の言葉、詩人たちの言葉が住処としている原初のテクストは彼らの死後、弟子たちの何世代かの後に、読めなくなってくる(だから注釈の必要が出てくる)。イェイツにとっては、過去に帰れということ、それは読めなくなったテクストの意味を作っていく詩的な発明を意味していたのか?‬未来を思い出すこと、ここに、アイルランドが立つための突破口があるが、これは、経験的に調査して言葉に取り組んだシングと違って、イェイツはロマン主義的に行った。死に切った過去から思い出したというのが私の理解である