ジョイスのトリエステ

‪昨夜はローマからの乗り継ぎで、夜10時過ぎにトリエステに到着。イタリアの一番端っこはベニスではなくここトリエステ南ヨーロッパに継がる。その意味は何か?だけれど街は闇に包まれている。十数年前にここに来たときは、このように鄙びた所に、オペラハウスがあることに不思議に思った。商業が情報と知を運。トリエステにおいても例外にあらず。20世紀初頭、貿易と交通とそれが運んだ知がこの街に存在していたというふうに考えられる。トリエステの発展の歴史は、ユダヤ人による。ダブリンから自分で決めた亡命の作家を迎えたときは、ヴェルディ未来派も沸騰していた。いまは暗くて見えないが、夏の夜の嵐のことをおもいだす。当時ヨーロッパで有数の大きさをもっていた港の広場から見渡す、アドリア海の稲妻。この無言の炸裂が、古代ギリシャに神話の想像力を与えた。「ユリシーズ」は神話的リアリズムを以て書いた。神話とリアリズムのモンタージュ。神話的というのは、テレマコスで始まり、ペネロで終わる構想である(一番最初の挿話がどの神話で始まるかは偶然ではあったが。)リアリズムは、植民都市ダブリンの人々の日常を描いたこと。ジョイスはトリエステの作家を小説のモデルにした。そうして、ギリシャ神話の神々はダブリンに生きる主人公たちの無意識に棲んでいるようである。人間という有限の存在に神々ー無限ーを置くこと。しかしそれはどういうことなのか?ヘーゲル左派マルクスが最初の論文でかんがえたギリシャの神は個体性(原子)を住処としていた。カラバッチョにおいては神は人間を住処とする(天使は宙を飛ばない。貴族ではなく、労働者たちの街にいる女性がイエスを抱いている。) ジョイスの場合は、アイルランド作家たちの独立をもとめるアイデンティティー"ひび割れた眼鏡をかけた召使い"の芸術と揶揄されるー、ここに古代イスラエル古代ギリシャの神が棲んでいる。ジョイスはここに自己の有限性を見いだした。ジョイスはシューレアリストではない。シューレアリスムは抑圧からの解放であるから、ジョイスのように『フィネガンズウエイク』を完成させるために50数カ国を学び続けるというような抑圧はあり得ないだろう。社会的に受け入れられず普遍的に論理的である構成の為に必要としても、屈辱というか、植民地主義的従属化かもしれないのである。だけれどジョイスは無限へ行く可能性が、ほかならない、この有限性を住処にしているいることを信じていた。時代は変わる。昼の本から夜の本へいく。その意味は何か?ジョイスの戦争を避けてトリエステを出てチューリッヒやパリへ行く時代に書いた『フィネガンズウエイク』は、1930年代のポスト・バベルの塔という性格をもっているといえるだろうか、私はそう思ってるのだけれど。そもそも伝説バベルの塔は、古代アラブの高度な建築術とコスモポリタンの都市的多様性を物語るが、それと対抗する必要のためにユダヤ共同体にネガティブに物語られることになったが、ジョイスにおいては、建築物が人間の住処であるように、ファシズムに依存しない、時代と等価の大きさをもつ文学が人間の住処となるべきであった。‬


トリエステの広場 (Piazza dell'Unita d'Italia)は、私の想像において、ジョイスがいた時代の色々な方向性が投射されている平面。トリエステの帰属をめぐるオーストリアの伊の対立、ミラノとローマの対立、社会主義アナーキズムナショナリズム。この平面に、文学が依拠する、複数の直線上の運動から自立した精神的な点が存在していることが要請される‬


ムッソリーニのイタリアの前まで、多様な言語が沸騰していたらしい。フロイトも、トリエステに来ていた。ここは彼にルネッサンスのダビテ像とは異なる、ヘブライのダビテを考えさせたかもしれない。それははっきりわからないが、何にしても、「モーゼと一神教」結実する仕事は、他者アジアと相対するヨーロッパの端、言語の端を必要としたのであるとおもわれる。

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