映画が存在していたといことの意味

‪映画というものがあった時代、人生の切実な問題を共に考えてくれるような、光と暗闇の織りなす投影とスクリーンからの包摂がありました。だけれど「2001年オデッセイアの旅」が示した、宇宙の端=スクリーンが消滅したとき、光と影は唯の伝達となります。‪「真実を他人に伝えるならば面白おかしくすること。さもないととんでもないことになる」。真実はこうです。映画の光とともにマクロ経済学が消滅したそのときに、暗闇の背後から極右翼があらわれたのです。(これは世界的傾向で、「第三の男」の現地を訪ねたが、ワイルダ、キューカー、ラングの痕跡もなかった‬。) 

テレビの右翼大臣の終わらぬあの楽観的な高笑いの下に、ヤバイことに、光は他の「国民性」を盲目的に裁きつづけ、暗闇の方は憎悪表現によって沈黙の隙間を埋め尽くす?失われたスクリーンはどこへいったのか?戦後思想は貧しかったのですが、やっと80年代からの多様な繁茂のなかにおける言語の再出現がありますね。現在アジア(中国)の読者がこの80年代の思考に関心を向けはじめました。いつだれが、スクリーンをはじめるのかという問題をかんがえています。同じことは起きませんが、歴史の反復。やはり不可避の他者(外部)から始まってくるのではないでしょうか