仁斎論語

解体<君子たること論>


‪(1) 儒教に対するヘイトスピーチ本の話題をきく。誰かが反論すべきだという。しかし「儒教」を以て何をいい表すのか知っている必要がある。儒教の名称はインターナショナルではない。『儒学』ならば通じるらしい。宗教的意味ならばそれは『孔子教』である。近世の徳川ジャパンの思想家徂徠は『儒教』と言わず、「聖人の知」という言い方をしていた。『儒教』という語は近代が指し示した、教説という意味合いをもつ語であることをおさえておかなければいけないのである。こういうことは、「論語塾」講義ではじめて知った。あらためて、「儒教」とは何か?「儒教」は明治維新と敗戦(第2次世界大戦)によって、忘れ去られた"X"である。私自身のことをいうと、なにも知らなかった。大学時代に、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)を読んで、彼の儒教道教』も読んでみようとした。だが挫折してしまったのは、恥ずかしながら、儒教の基本的な知識すらもっていないために飽きてしまったからであった。また、「儒教」のことがほんとうに言及されているのか、「近代」のことしか書いていないのではないかとだんだん気がついたことがあるが、現在この点について考えてみる価値がある。

(2)『儒教道教』については、子安氏が「思想史家が読む論語」で批判的に言及しているので、そこで引かれたヴェーバーの文をここに示そう。

「そもそも中国人には、模範的なピューリタンの、中心をもち、内面に発して、宗教的に整序されたあの合理的な生活方法論は存在しなかった」、「儒教徒のきびしい克己の目ざしたものは、外面的な身振りや作法の威厳、すなわち「面子」を保つことであった」。『論語』の「君子は器(うつわ)ならず」によって、儒教的人格理想「高貴な人」すなわち君子とは「<道具>ではなかった。すなわち世俗適応的な自己完成を為した高貴な人は一つの究極的な自己目的であり、いかなる種類のものにせよ、決して即時的な目的のための手段ではなかった。儒教りんりqのこうした核心をなす命題は、専門分化や近代的な専門官僚制や専門教育、とりわけ営利のための経済的修練を拒否するものであった。ピューリタリズムは、このような人格崇拝的な自己完成の格律に反対して、全く逆に、世俗と職業生活とが有する特殊な即時的諸目的に即して自己の救いを確証するという使命を、措定した」、(儒教の)そうした理想の教養人は「軍事的なものであれ経済的なものであれ、およそ合理的行為のエネルギーとは無関係であった」

(3) ‪これは、「ヨーロッパの反面鏡的な他者作りというべきアジア理解(オリエンタリズム)」である。彼方に停滞する否定的他者(アジア)を、此方に自己自身(ヨーロッパ)を配置するという分割は、論理の必然として、パラドックスに陥いる。というのは、否定的他者は、他者を前提としないかぎり成り立つことはないから。厄介なのは、このパラドックスを解決しようとすると、他を消さなければならない。だが他者が存在しなければ自己も存在しないのである。ここに、文明論の近代がどのように支えられているかが明らかとなる。近代それ自身に支えられている。「マックス・ヴェーバは中国における近代的な合理的社会の不成立を儒教の人格理想との関連で説いていく」、「ヨーロッパの比較文明論的なアジア像は、ヨーロッパが作る自己像の裏返しである」(子安)。こうしたことは、植民地主義のヨーロッパ(近代日本うぃ含めた)と関係がある。儒教の君子像をめぐって、ヨーロッパからのこうした理解があることを念頭に置いて、あえて、『論語』が「君子たること」を通じてどのように人間理想を語っているのか考えてみる。ここで、はじめて、新しい普遍主義の再構成を以て近代を乗り越える課題がアジアにおいて可能かという問いが提出されることになる‬