仁斎論語

仁の教説を脱構築する


仁でも義でも何でもいいのだけれど、<精神的な何々を「目標」としてもつ>というのは、こういうことだね。隣人と非常に近い出発点なのに、多様性を以て学んでいく結果、わたしが辿り着いた所とその隣人が辿り着いた所が互いに全然離れていることになるのは面白いよね。その出発点もはっきり認識できるものではない。ただしだれでも、惻隠の心(同情心)、謙譲、羞悪、是非をもっていることは確かだね。対自的・対他的に拡充していく。これが仁斎の構成である。比べると、<何々が「起源」である>は帰るべき所が同じでなければならないとする。朱子学によると、帰れないのは欲望をとりはらっていないからであると説明される。だけれど変わってはならない内部に絡み取られてもつまらないでしょう。だれも届かないそんな高い所に、仁を閉じ込めてどうするつもりなの?どちらの見方がより民主的か?