仁斎論語

「道」の教説を解体する


‪オリエント学と中国哲学が行うアジア思想の分析は、ラカン派がおこなう精神分析の映画分析と似ているとおもう。つまり真理は人類の普遍主義を読む。科学なんだな。それに対して、17世紀儒者達は 漢文の宇宙的思弁を以て人間の存在をとらえた。ヌーヴェルバーグの批評精神は映画を見るときは、真理ではなく、道路にある人生の切実な問題をみたように‬。さて、「道とはなにか」という問いに、多くの学者たちは「道とは路である」という古くから用いらてきた定義によって答えている。道路とはだれもがそれに撚っていくことのできるものである。そこから道は公共的な普遍的な性格をもった道理を意味し、だれでも依拠すべき規範をも意味する。問題は、道の理念性が究極的原理として高慢なほど高過ぎることの危険が起きるときについてである。この点について、仁斎は道とは人の人たる所以の道だという。『仁斎論語』の解説の中で言及されているとおり、既成儒家の「四書五経」的思想世界または『大学』を第一とする儒家の国家哲学的教説体系に対して、人間世界を日常卑近な人の道を『論語』の根底としてとらえ返すというのである。今日ならば、「夫子の道は忠恕のみ」といわれることについてどう解するか?「人に対するのに実をもってする忠と、相手の身になって考える恕とが、孔子の道と教えとを一貫するものだと、曾子とともに仁斎は考えるのである」(「思想史家が読む論語」) 今日これを活かすとしたら、国家祭祀の超憲法的なものの復活を行わないという誓いの言葉を東アジアの平和共存を願う人々の立場に立って保つことであると思う。