仁斎論語

国家の教説を解体する


漢字と仮名の「宇宙」とはなにか?それは、(オリエント学と中国学)漢字とヨーロッパ語の<宇宙>ー思想の至上性が覆う無限の領域ーとちがって、端っこにある別の宇宙の存在をおもわせる。中途半端な意味、言葉の片割れのような有限な人間の分身が住処にしている宇宙である。ほかならない、この端っこにおいて、思想の至上性と卑近性(平常なこと)とが相補的に成り立つことになった。人間の存在について語る哲学に、明治の知識人たちが持っていた朱子学的のコスモロジー的思弁が科学的宇宙論にとって代わられてしまっただけではない。本の存在を語る哲学もである。国家は本を住処としている(起源をもとめる)。これに対して、‪外部の世界を新たに宇宙の中心として構成していく本も存在する。‬「最上至極宇宙第一」にすんでいる本として自らを再発見されることを望んだ本を17世紀の伊藤仁斎を絶対的に選択したとき、それは、「事件としての仁斎学」を構成するものである。そうして『論語』は解体<国家>の「論語問題」となる。「論語問題」は開かれた問題である。開かれているというのは、『論語』が皇帝的国家中国だけではなく、近世の幕藩制国家日本の江戸政府もまた脱構築されていく思想革命をもつという意味である。"『論語』のテキストの上には二千年をこえる歴史における東アジアの人びとの読みと読み直し作業とが堆積している"(子安宣邦氏)のは、現在進行形である。宇宙と宇宙の間で言説の差異が生成展開している