近代

‪近代というのは知の偏執的な自己愛。ごめんなさい、愚鈍な私などはいつもそう思ってしまう。その知は自身と異なる物の見方に「説得力がない」と軽蔑するのが常だ。「説得力」とは何か?近代はそこで自己が一生懸命拵えた物語の中に、自己との差異が住処とする<遅れたもの>を書かなくてはならない。それが「説得力」の証拠だ。だから近代は「謎解き」の知にみえてしまう。テレビの一対多の間で成り立つクイズ番組の知というか。自己を律したdisciplinaryがある者が確実に獲得できる。そうして、加藤は彼自身の二面性ではなく本居宣長の二面性の「謎」を教えてくる。ストーリーテイラーの丸山は、勝利した近代の現在のあり方(「作為性」?)を教えるために、徳川ジャパンの思想史に、<遅れたもの>がすんでいる「自然性」を指示してみせた。

今日のことをいえば、問題となっているのは、こんなに近代化したのに、経済のパフォーマンスばかりで、アジアはデモクラシーを獲得しているのか、獲得したものも存続できるのかという疑問である