映画の知

「マンハッタンの二人の男」に、イタリア移民とアイルランド移民のこどもが出てくるのがいいですね。監督のジャン=ピエール・メルヴィルは「ヌーヴェルヴァーグの精神的父親」といわれるのですが、諸説あるでしょうが、その意味は不明ですね(そう呼ばれたものが不在だったということをかんがえてしまいます。) 映画史的な観点からいうと、映画の最初は見世物的なもの。映画の知が成り立つのは、ハリウッド映画に対抗する弁証法の自然哲学的な捉え方からはじまりました。これにたいしては、存在論的な再構成が戦後に主張されてきます。この言説のなかにあってゴダールは心理学の古典的な知覚論を擁護しました。ヌーヴェルヴァーグ以降は、映画の知は、映画の消滅に抗して、ゴダールが依拠するような言葉の方向から倫理的な捉え方を確立していきます。現在は生命論的な見方ですね。時間を見るとはなにか?だれがそれを見るのか?百年間大衆が時間をスクーンを通じて見てきました。時間の意味は、映画の知がいかに映画を捉えたかを示すことによって露わになるのではないでしょうか