人類皆平等について考える

‪「人類皆平等」の近代は、フランス革命から始まったことは確かだ。だけれどナポレオンの共和主義の反対に行くことになる方向を、あのベートベンですら、見抜くことができなかったエピソードを読むと、何が「人類皆平等」であるかの判断は簡単ではないのである。第一次大戦後のワイマール体制は「人類皆平等」の方向を打ちだしていた。だがこの体制から、ヒトラーという「人類皆平等」のラジカルな否定があらわれてきた。この混乱はどう説明できるのか?この混乱はフランス革命が百年間を以って行ったデモクラシーをドイツが僅か十数年間という縮約して実現しなければならなかったその無理から生じたのではなかったか、そういう説もある。この問題は、ほかならない、アジアの問題である。ヨーロッパはルネサンスから500年かけてデモクラシーの近代を獲得したが、アジアはそれを百年とか二十年でやろうというのだから、このような大変な圧縮のなかで、どういうことが起きるのだろうか?「人類皆平等」の民主主義を全体主義とかんがえたり、また全体主義を「人類皆平等」の民主主義とかんがえたりするという転倒が起きるかもしれない。東アジアは二十年ぐらいで民主化を行うが、比べると、日本は150年の期間があった。しかし昨年のことを考えると、民主化運動のリーダーを「人類皆平等」の否定者の烙印をはってはいなかっただろうかという危機感すらないではないか。これが東アジアのデモクラシーを先行した"150年間"の達成なのか?ここから、戦後の民主主義は本当にそれほど「人類皆平等」なのだろうかとどうしても考えることになる。大正デモクラシーというのは戦争さえなければ順調に完成するはずだった、だから戦後はこの<純粋>大正デモクラシーから再びはじめれば宜しいと楽観的に考えているとき、帝国主義の議会こそが戦争(日中戦争)を準備したかもしれないということは疑われることがない。こういうことをかんがえながら、「人類皆平等」の近代はなんだろうかと思ってしまう。果たして、「人類皆平等」は不要な観念だろうか?ベートベンの後期のピアノソナタをききながらおもう。そうはおもわない。理念としてもたなければやっていけなくなるだろう、と