朱子の自然哲学

昨年末から12世紀朱子の鬼神論の読みが「論語塾」ではじまった。なぜ朱子の自然哲学を読むのか?こういう風に読めると学ぶとき、近代日本語のほかに中途半端なヨーロッパ語しか知らないこの私にも、読める数行があるんだと感動する。古典世界の煌めきが一瞬みえたような気持ちに。それは再び消える。暗闇に、知と信の間の分裂の如く、過去への投射はそれほど連続的に安定していない。すっかり見えなくなる。それでもそこに何が存在したのか?反時代的な距離としか形容できないセリー(系列) の揺らぎのなかで自問自答する‬...結局消滅した過去を読むなんて無理。いかに過去を読むのか?と同時に、いかに過去を読まないのか?思考不可能なものによって、思考可能なものとは何かを問う。アジアの人々が自らを投射し依拠できる過去について考えるようになったことだけはたしかだね



鬼神の問題は最初から、制度を作ったり廃止するときのように、意味を組み立ていく議論可能で言説的な、したがって建築的な思考を要する問題である。鬼神を国家にすまわせるかどうかという「英霊」の問題も、固有なものを受け継ぐという文化上の権利の問題としてあるのではないよね