21世紀の思想たりうるか?

21世紀の思想たりうるか?

普遍主義は普遍主義、貨幣は貨幣である。特殊の普遍が成り立たないように、商品の貨幣も成り立つことがない。投射は連続的に安定しているようにはみえない。つまり普遍主義による知は、普遍主義であるかぎり「アジアに向かって投射する普遍主義」を思考することができないし、「商品a、b、c...において投射する貨幣の形式」も思考できないのである。「アジアの普遍主義」も「商品の貨幣」も沈黙するだけだ。ここで魯迅が憂うとおりのことが起きる。「普遍、永久、完全、この三種の宝は、むろん得がたいものではありますが、しかしまた作者の棺桶を打ちつける釘でもあり、彼を釘づけにして葬ることもできるのです。」だけれど知は思考不可能なものから独立して、自らの非排他性としてのあり方ならば常に思考できる。言葉は沈黙しない。「アジアの普遍主義」は、そういう知を介して、国家祭祀というネットワークの排他性の問題を初めて語りだすことになった。「アジアの普遍主義」は言葉にすんでいる言説である。そうして、「アジアのグローバルデモクラシー」と言い出されたものは思考可能である。均く生存手段と知のアクセスの非排他性を意味する、99%の時代が要請する21世紀の新しい概念として私は考えることができるだろうかと思っている