仁斎論語

‪アジアのグローバル・デモクラシーの思想とはなにか?グローバル資本主義が齎らす孤立の"痛み"をいかに言葉にすまわせるのか?普遍主義を開かれた方向に差異化する為に。知が自らを語る言説ゲームの規則は、2011年「ウォール街を占拠せよ」運動から変わった。社会学と文化多元主義から、倫理学と政治多元主義へと‬。「美しい国」の問題は古い知の枠組みによって批判的に取り組みことが不可能にかんじられるようになってきた



「本とは何かと共に機械になるべきなのだ。一個の「外」にはたらきかける小さな道具であるべきなのだ」(Deleuze=Guattari )。ポスト構造主義は『ユリシーズ』を発見したのは必然性があった。‪『ユリシーズ』の挿話「イタケ」は、あらゆる教説を拒む余白をなお囲いこもうとする原理主義植民地主義を嘲笑って終わるのだから。その本自身が、亡命者の故郷の帰還とはいえない形で、何かと共に、ホテルの部屋の如くある家の幻想を構成しているようだ。アジアのポスト構造主義が17世紀のテクストを発見したのもこれと同様な必然性を以てである。不可避の他者との関係において新しく自らとの関係を再構成するそんな仮の空間のあり方を方法的に問う宇宙的存在としての人間が住処とするのは、まだだれも見ていない宇宙の端において孔だらけとなっている仮の空間にちがいない。多分これが「最上至極宇宙第一も書」の意味するところである。



安倍は信念をもたない特別の政治家である。安倍個人に近代が極まった感じである。だから明治を要求する。これに対しては、‪「明治より大正」という。「大正デモクラシー」と言えばそれで何かを言ったつもりになっているイノセントな言論は、日本帝国主義が確立した「大正デモクラシー」は、満州事変に向けての「昭和ファシズム」の始まりであることをみようとしない。「大正」という名の明治をたたえているだけだ。結局、‬「信念」だけでなく、「信」の問題も考なければならなくなったという気がする。明治が齎した言語の拡散を転回させる「信」を伴わずして、明治をラジカルに批判できるか?明治に先行する時代を含めた全ての歴史から、言語を集中させること