信念

昭和思想史研究会の懇親会で、安倍は「信念」をもっていない特別な政治家であるという話になりました。「信念」とは何か?それは無関心のもとでは中々生まれてこないのだろうとおもいます。統制する側は、無関心になってもらうことがそのまま政権に「希望」をもってもらうことになるということを露骨にやっていますよね。安倍政権とは、無関心が語る「希望」を増殖させていく体制なのかもしれません。その「希望」も、自分たちの権利と生存に有利な方向を向いているかといえば必ずしもそうではなく、反対に不利な方向に立てている感じにみえるんですけどね。だけれども後者のことについては、「そんなことは知っています」なんですね。知っているならば、なぜ、前者よりも後者の方に惹きつけられてしまうのかという問題ですね。わからない点ですが、答えのない問題かもしれません。同じ社会に生きる以上自分に関わってくるその問題をどうするか...「信念」のなかの「信」の問題であるという気もするのですが...



安倍は信念をもたない特別の政治家である。安倍個人に近代が極まった感じである。だから明治を要求する。これに対しては、‪「明治より大正」という。「大正デモクラシー」と言えばそれで何かを言ったつもりになっているイノセントなものは、日本帝国主義が確立した「大正デモクラシー」は、満州事変に向けての「昭和ファシズム」の始まりであることをみようとしない。「大正」という名の明治をたたえているだけだ。結局、‬「信念」だけでなく、「信」の問題も考なければならなくなったという気がする。明治が齎した言語の拡散を転回させる「信」を伴わずして、明治をラジカルに批判できるか?明治に先行する時代を含めた全ての歴史から、言語を集中させること