二百歳のマルクス !?

‪二百歳のマルクス


マルクスが生きていたら外国のマルクス主義ー想定されるコミュニズム専制君主ーに吃驚するだろうという話をしている言葉に、それほど説得されることはないのだけれど。(だってその場合は、マルクスが日本に生きていたらという前提に、マルクスの読み手の存在が前提とされる。そこでこの読み手は二百歳のおじいちゃんマルクスに吃驚しなさいと命じるということでしょう?) その話者は、少し考えればわかることだが、そのマルクスがその外国に生きていたら、日本のマルクス主義ー想定されるコミュニズム民族主義ーに吃驚しないとおもっている根拠がどこにあるのか?マルクスは死んでいるのか生きているのかわからないからこういう話を聞くことになるのかしら。今年やる映画はマルクスをどう語るのか?私の考えでは、寧ろ、死に切ったマルクスからしか、21世紀にもとめられるよう新しい思想が始まることはないだろう。と、こういう話をしてみたい。マルクスが生きていたときも、"忠実な"エンゲルはマルクスが書いたものに吃驚しなかっただろうか。そもそもマルクス自身も、(ヴィクトリア朝ブルジョア的作家たちが妻を"忠実な"タイプライターにするスタイルで)イエニーがその通りに書き写した自分の考えに吃驚していたかもしれないのだ。このときマルクスは、現在根絶され尽くしたイエニーの言葉の痕跡ー落書きやメモーと共に、マルクスが言葉にすんでいることを最初に知ったはずである。マルクスは、時代の要請に応じて、マルクスとはそれを読む解釈の欲望に委ねられる近代を構成する言説になるほかないことを最初に知った。マルクスの近代とは、マルクスの言葉を読む二つの態度を推し進めていった。その近代とは、19世紀の知に極まるような、普遍主義的変換可能性と、言葉の背後に隠されている固有性の間を往復して止まぬ反復の近代である