保つこと

保守思想といったってもね、それを語る思想のプロに想定される保守主義があるだけのことじゃないかしら?物の見方でしかないものを、思想のプロがやるように実体があるように考えなければならないとしたら、そのうち、考えること自体がむなしくなってしまいそうなんですが。思想のプロでない、わたしのようなものでも、なんとか考えることができるのはせいぜい、「保つ」という言葉の意味です。「保つ」とは、映画人ロバート・ブレッソンによると、'何も変えてはならない、すべてが違ったものになるように'という意味での「保つ」なんですね。問題は、'すべて'が消滅してしまい、その'すべて'を物語る知の秩序があったかどうかも忘れてしまうときです。末法みたいなそのとき、何を「保つ」のでしょうか?例えば、切実な問題として、今世紀にはいってから、1954年から1964年の間にある映画たちを総体として語る物の見方が消滅しました。ヌーヴェルバーグの名で呼ばれた物の見方があったことすらも忘れられてしまいました。現在映画がなにかの痕跡として個別的に存在しているだけなのです。しかし痕跡が他者となったとき、本当はここから大切ななにかがはじまるのかもしれません。他者との関係において新しく自己との関係のあり方を違ったものにしていくことこそが、「保つ」の意味ではないでしょうか。アイロニカルに、驚くべきことに、映画が消滅し切った時代は、映画の誕生の前の時代、思考できないものを思考するために全く未知なものが必要とされていた時代と非常に似ているかもしれません