『仁斎論語』

論語』についてツイートしようとしたら、140字では説明できないことに気がついた。140字は無理だ。140字は長すぎるから。『論語』は「人の外に道無く、道の外に人無し」の言葉に尽きる。路にいる人は、どの路であれ、そこでの関係のなかに生きる。道は路である。人は自らと道を宇宙に向かって投射する。4年かかってすこしみえてきたことは、『論語』が言っていることは、『論語』が書かれている仕方と違わないということ。だから『論語』は対象がない。孔子と弟子たちの間に道の名を定義しようとする定義が無いことと関係があろう。伊藤仁斎が絶対的に選択した『論語』は、『大学』がもつ対象をもたない。世界全体に投げだすことによって道を自らのものにしようとする路の人にとっては、どこから来たのか、どこへ行くのか、いつから始めなければならないとする起源はない。だから『論語』は仁斎を絶対的に選択しなければならなかったといえないだろうか。と同時に、皇帝の体制であれ幕藩体制であれ、国家の言説を構成する『大学』から仁斎は脱出できたのではなかっただろうか?