ゴダール

ゴダール派からすると、タルコフスキーのような監督は映画の外に何かの存在を信じているのはいかにも容認できません。むしろゴダールの構成は、宗教的なものが映画を住処としているというものです。ゴダールは、もしロッセリーニのようであればキリストの説教する映画を作ったかもしれませんが、ソクラテス的に論争的です。「あなたのは映画ではありません」と繰り返されてきた反発に対して、「では何が映画なのか?」と切り返した『映画史』は、メタ言語的に、イメージとはなにかという解釈を解釈していったのでした。この『映画史』のナレーションの特徴は、ずっと言われてきたことをはじめて喋る語り方にあります。そしてそこで誰も語らなかったことをずっと語られてきたとするのです。映画であるとされるものも映画でないとされるものも、他者の「手」を住処としなければならないことが言われているようです。こんなことはだれも言ったことがありまでん。(それはフィルムを編集する手のことかもしれません。それならば意味が通ります。だけれど手に委ねられた映画からは決定的な映画がつくられなかった、アウシュビッツを撮った映画は現れなかった点を強調しています。) たしかに、ほかならない、卑近な人の「手」から行うことでしょう。そこにとどまることなく、映画が住処とする他者の「手」にもっと思考の形式が要請されるのでしょう。世界というスクリーンに向かって投射されるべきその形式とは、すなわち、「すべての歴史」「ただ一つの歴史」「映画だけが」「命がけの美」「絶対の貨幣」「新たな波」「宇宙のコントロール」「徴は至る所に」‬