フーコを読む



固有なものに対するこだわりはいつの時代にもみられる。17世紀より前の時代も、固有なものに対するこだわりがあったことはあった。17世紀から新しくはじまったことは、それが、人間とその思考において、展開することになったのである。17世紀に固有なものに対するこだわりは反復されたけれど、「人間にたいして、人間を逃れるものから出発してみずからを想起することを可能にするもの」がはじまっていた、と、フーコは言っている。同時に、現代の問題に暗黙に見渡す。はっきりわからないが、フーコはサルトルスターリン主義との関係の問題を考えていたかもしれない。「昭和思想史研究会」で問題提起されたことだが、わたしの場合は、19世紀のコンテクストにおいて書かれた『資本論』を読むその読み方へのこだわりー21世紀アジアの知識人たちをとらえている古い形の普遍主義への後退?ーをみるとき、この17世紀の問題をフーコの文から再びどうしても考えてしまうのだけれど。19世紀20世紀の物の見方に反映された時代遅れの普遍主義(世界史的言説)にたいして、ここから、新しい形の普遍主義の思想を模索しているのだけれど(簡単ではないね)


人間はまた、経験的=先験的二重体であるから、認識の場所でもあるー誤認といったが、それこそ、つねに人間の思考から人間固有の存在(エートル)を溢れ出させる危険にさらし、同時に、人間にたいして、人間を逃れるものから出発してみずからを想起することを可能にするものなのだ。(フーコ 'コギトと思考されぬもの' 渡辺一民訳)‬ Parce qu'il est doublet empiricism-transcendantal, l'homme est aussi le lieu de la méconnaissance, ー de cette méconnaissance qui expose toujours sa pensée à être débordée par son être propre, et qui lui permet en même temps de se rappeler á partir de ce qui lui échappe. (Foucault)‬