ユダヤとアラブ

‪なーんか変な夢をみつづけるよね。風邪で頭がボーとしていて、どうしたんだろう?妄想が泉みたいに次々わいてくるんだけれど。と、ロンドンのユダヤ人とイスラム人が朱子と弟子たちの議論を読んだらどういうことになるかなんて、風邪だからかんがえることだろうなあ。思い返してみると、イスラエル人は、死後の魂の行方よりも移住した国できちんと祀られているのかに関心があった。ユダヤ人墓地にいくと、その国でいかにユダヤ人たちが受け入れられたかがわかるといっていた。ドイツの墓地をみると、いかに嘗てのベルリンのユダヤ人たちがロンドンのユダヤ人と比べて、裕福に暮らしていたかその生活の全体がわかるという。(彼のお父さんは戦前のベルリン大学出身のコミュニストで、ソビエトへ行くが、失望してイスラエルへ移った。) さて私に震えながら話してくれた肉体の復活はどうも思想問題に属する事柄らしい。帝国的に?神は普遍しか知ることができないように、魂の集合は肉体から離脱した後に個体性を失ってそうなる。だがユダヤ人にとって、それは共同体との関係を重んじる感情が容易に受け入れることができぬ理性偏重の考え方だろう‬。イスラムの帝国的な理性を中心とした思想を批判すると同時に、ユダヤ思想がオリジナリティーを以てアラブ世界から自立していった話が繰り返されたが、思想問題と歴史問題がこの話に交差しているようであった。カフェでよく言い争ったが、初期ユダヤ思想の哲学者たちはアラビア語で書いたのであるから、それはイスラムの思想からの論争的な'自立'とみるべきではないかと言うと、何語で書かれたかは問題ではないとするイスラエル人は'独立'だとはっきり言う。この点を深めるには、当たり前だが、私は言葉の限界にぶつかってしまった。‪ユダヤとアラブから触発された中途半端な思考だったが、アジアの知を対象にしてより深まるかも‬しれないなどとおもって、『論語塾』で朱子を勉強させてもらっている