死の分裂化 ー ポストモダン<死>

ポストモダン<死>


‪『鬼神論』を再び読んだあとに、厄介な風邪も治ってきたところで、これから『平田篤胤の世界』を読もうとしているのだけれど、改めてこれは何を問おうとしている本なのかと考えてしまった。2018年の現在、2001年に出たこの本から新しくなにを学ぶのか?21世紀グローバルデモクラシーの方向をもった、アジアにおける新しい普遍主義の形が模索されようとするとき、嘗て「日本人」と呼ばれた人びとが依ることができる彼らの新しい経験といえば、「普通の国家」になることを辞める誓いを行なった戦後から祭政一致の国家祭祀をやめなければもうやっていけなくなると感じた倫理的なものがある。祭政一致の国家祭祀は責任をもたない政府を作り出してしまう。こういうテーマはこの五年間の間、思想史講座の講義後の懇親会のような場で段々と築きあげられていった認識である。それは、哲学的には、『アンチ・オイデプス』(1972)において現われる"死の分裂化"の概念に関わるものだと考えている。(90年代に読んだそのハイデガ批判を正確に理解していないのだけれど、それで構わないとおもっている。) 平田篤胤を読む"死の分裂化"が私の関心である。それは、他者との関係において自己との関係を再構成していくそのありが、思考の柔軟性をともなった情念(怒りも含む感情)において為されるという見方を理解させるような、ポストモダン<死>とあえて呼ぶべきものである。グローバル帝国論も、グローバル時代の明治維新の再評価も、救済論的に一生懸命国家を作り直そうとする物の見方であるけれども、(戦前の祭政一致の国家祭祀がそのままの形で繰り返されることがないだろうが)、そうした言語を拡散し死を集中させようとするナショナルな言説から脱出できるかどうかは、何とか知識人から離れず民の側からする思考の柔軟性を保った、内部に絡みとられることのないその"死の分裂化"にかかっているのではないかと思っている。