知識人

知識人というのは、本を読む視線にすんでいる。差違はその超越論的な不安のうちに、ただ言語にだけ住みつくことができるものなのだ。その中で、他者、開かれた知に、Hello!といえるほどの人は読者を得る可能性がある。ところが、それまで考えてきたことに反しても、読者大衆が望むことを語り出す文化人となるとき、伝達を本質とするテレビ知の内部で他者にたいしてNo、No、Noという。‪差異は世界にすむつくことはできない。救世論的な身振りとジェスチャーを以てする‬差異と外部にたいする拒絶は、ナショナルな「われわれ」を「観光客」とたたえ、「彼ら」を「スリーパーセル」と排除していく。「われわれ」と「彼ら」の間の境界を自分で作っておきながら「彼ら」にたいする実存的不安をかんじている文化人。分断する必要のない人びとをいきなり囲い込んで、他者を自分でわからなくしていく一方的な指示作用にすむようになっている。そうみえるのだけれど