失うこと

たしかに文学にその痕跡はあるとおもうのですね。<いったん'得た'>ものについて考えてみようとするのですが、どうも、'得た'ものは無かったようにおもうのですね。それなのに、わたしの中で、<失うことになった>といつも感じているのはどうしてなのか。この喪失感はわたしだけでないようなので、(「みんなのもの」という冗談でなければ)、それは文学に書かれている先験的なものじゃないかしらとも思うのですが、'先験的'といえばそれで何かがわかったわけでもありませんね。<何かを得るために何かを失う>というのは、50年前の、1968年の輝かしい精神だったでしょう。だけれどそれはまだ近代のためとしてある反近代でしかないとしたら、<失うために失うことができる>というのが、現代という暴力が剥き出しになってきた時代に対して、1968年以降思想がとる喪失ではないだろうかとやっとかんがるようになったのですけれど。(考えたのはいいのですが、遅すぎたという観念に苛まれています。) その思想は探されているというか...探されているのですけれど、その思想は、無限に広い宇宙と等価の大きさをもった懐疑の内省と、虫の死体に宿った情念というか感情というか、そういうところにすんでいるというか、点点点点...変なものですね