フーコ

‪だれが『言葉と物』を翻訳できたのか?


何も為すことができず、あっという間に、「帰国」後10年が過ぎようとしている。おもいかえすと、二年間は「共通のもの」がなく「共感」できるものなど何もなかったような状態で、例外的に話すことができた相手といえば、市民大学で最後の講座に出た一人になったが、渡辺一民先生ひとりだった。最後の講座では、フランス文学をやるとは生意気だと顔の輪郭が崩れるかとおもうほど殴ってきた戦前の軍人と自己批判を迫ってきた全共闘の学生を等置していた。(今日投稿したから)近現代日本のオリエンタリズムから説明したのでここでは言及しないが、だれが『言葉と物』を翻訳できたのか?それは事後的語りかもしれないがあえて二つの経験の関係づけようとした渡辺一民である。最後の講義で先生はこの話をしたのは、戦争に至る急激な全体化を知らない安倍にたいする危惧と抗議を示したかったからである。先生が翻訳なさったフーコ『言葉と物』から読みとった、繊細なアイロニーを住処としている、他者に向かって内部に絡みとられない思考の柔軟性こそは、いまの時代に最ももとめられていることではないか。問題となっているのは、中国でアメリカの憲法と民主主義を要求した抵抗者たちにたいしてとる、「反米」左翼のせまい視点と彼らがナショナリズムと同じ身振りとジェスチャーを以て行うレッテルはり("アメリカの新自由主義に加担するものである")ではないかとおもうのである。