漢字で読む言説<アジアのコスモロジー>

アジア思想を代表した12世紀の朱子の自然哲学的なコスモロジーを現代中国語で読むよりは、17世紀の京都の儒者たちが倫理思想を確立するために自然哲学を批判的に読んだやり方で読んだほうは12世紀に近い感じで読めるのではないか、想定されたそういう方向で、『論語塾』で勉強しているところですが、こういう風に、ローカルなところからグローバルな構造を読むことができることそれ自身に関心を持つ人がもっと多くいても現れてもいいのではないかとおもいます。明治の近代から必然としてそうなってしまうわけですが、「社会に役立つ」という意味で専ら近代科学の宇宙論にしか興味がないでしょうかね。ヨーロッパのコスモロジーはいかに近代思想に影響を与えたかを考えることは非常に興味深い探求でしょう。言説としてのアジアのコスモロジーの展開だって面白いはずなのです。だから、明治維新から150年間、日本から哲学が生まれてこない理由のひとつに、清沢満之夏目漱石などの明治知識人が漢字で考えていたようなアジアの宇宙論を全部失ってしまったということがあるのではないでしょうか。アジアのコスモロジーから、漢字の不可避の他者としての意味を考えることができるかもしれませんね。ナショナリズムから「古文漢文を必要としない」と呼びかける声が繰り返しありますが、長くなってしまいましたが、この主張に無視できない大事な問題があるので、ここでこれはどういう意味があるのかと考えてみたいです。それは「帝国主義的ではないか」とわたしは考えているのです。日本会議の方に向いている文化人たちは、『日本書紀』という日本国家のアイデンティティが漢字を住処としている以上、漢字を完全に消し去ることができないでしょう。漢字を包摂しながらいつまでもその漢字を「借り物」であるとして外部に排除していくそのあり方は、帝国主義に顕著な二重の分節化です。原日本語(「やまと言葉」)が中心にあり、漢字を周辺化していく言語観は、「日本人」という中心にアジア人は同化せよという帝国主義的同化主義に対応するものではないですかね。帝国主義同化政策と同じような方向に、マイノリティーは拒む権利がありますが、教育的支援が与えられず、均しく政治的権利をもつことがないのです。排除されるのはマイノリティーだけではありません。考え方として、漢字もまた、仮名とともに共存する権利を奪われていく危険性があるのではないかという風にかんがえてみることができませんか。‬


漢字文化圏ポスト構造主義とアジアにおけるグローバルデモクラシーの社会的公正、この両者から成る言説の意味とは何でしょうか?それは哲学的ということではないですか。明治維新から哲学を作る者はいなかった。後期近代のこの時代から初めて哲学が存在してくるのかもしれません。どうでしょうか?