痕跡を読む

‪痕跡を読む

デリダ『火ここになき灰』Feu la cendre は、遅すぎたのだけど、何とか英訳を注釈として利用して、二十代後半のとき初めて原文で読んだ現代フランス哲学の本だった。大まかだが、たしかこういうことをいっていた。làは書かれた言葉にすんでいるというのだね。ところで、読めば読むことができたそのlàを、だけれど、laと読む声によっては捉えることができないかもしれない。ここで考えておく必要のある問題は、làは声のlaに痕跡を残せるだろうかということ。(ただし逆は逆。書記言語làは、声のlaを捉えることができないだろう。大事な問題であるが、しかしここではこれについては問わない)。フランス文学の専門家、翻訳者ならば、当然な事にそう簡単に承諾できないだろうが、怒る人もいるかもしれないが、ここで哲学者デリダは仮にそうだとしたら哲学的にどういうことが言えるかを展開したのである。さて、同様なことが、簡単に読めない漢字エクリチュール(漢文と17世紀の書き下し文)とスラスラと読める現代語訳について言えるか考えているのだけれど。あきれるほど遅すぎというか (八百年も遅れた!)、この歳で(夢のなかで)漢文を読んでいる自分を発見できたこのわたしのようなものでもわかることはこういうことである。いかに12‬世紀の文だって、オリジナルである(起源)ということに非ず、痕跡に過ぎないということである。漢字エクリチュールは、まずここに痕跡がある。それから、思考できないものを思考するためにどうするかを考えていくのである(17世紀のレ点と一・二点を読むとか、現代中国語の初級文法書で現代日本語文の組み立ての違いを調べるとか色々)。ところが、わかりやすくなっている現代語訳というのは、思考できない痕跡を、オリジナルなものを指示してくるような隠蔽で覆うことになる、そういうことが起きてくるみたい。オリジナルに対しては、痕跡を読む思考が持続していかないというか、‪火ここになき灰‬が始まらない...いま、オリジナル(ホンモノ)とコピー(ニセモノ)の秩序的差異化そのものを批判したこの本を読み直す意味があるとしたら、<オリジナルを否定したオリジナル>(「本物の近代はアジアにあった」とする言説)に救済をもとめている文化論の政治的展開にたいするある解毒剤になるかしらね