中国とともに考える

中国とともに考える


発言「特権階級排除のために権力の集中」は、発言「皇帝」と同様に、反民主主義に突き進むようにみえる体制のそえものになってしまっていませんか。主体として考えること、反証の精神を嘲笑った、知の無惨ともいうべき、ヘイトスピーチを誘発することになるかもしれないこの種の発言は、一体いつ終わるのでしょうか?このことだけは言っておこうと思います。さて任期の条項を変更する憲法改正についてわたしはどう考えるのか、現場を知らないので間違ったことをいうでしょう。また、正直私は自分の思考の欠如を恥じています。だけれど不十分な自分の認識を批判するためにも、敢えて自分の考え方を示しておくということが必要ではないかとおもっています。さて、権力は民主主義の抗議に対して権力を行使したら、その権力は権威を失う、もうやっていけない、確かにこういうことはヨーロッパにおいて実感できました。だけれどアジアは同じなのか?認めたくないのだけれど、民主主義の声を抑圧した権力が益々権威をもってしまうではないか。しかしそうみていくと、私は私自身が思考できなくなってしまうのを感じるのです。民主主義は同じだと普遍的に考えることが自分に必要だとかんがえています。再び最初から考えてみようと思います。アジアの場合、経済的パフォーマンスはどんどん進むのに、政治的自由は進まないというこの事実を説明していく責任があります。それは、古代に始原を読みだしてしまう、いわば連続性の神話が、政治的自由を黙らせてしまうのではないでしょうか。( それはヨーロッパでも同じです。21世紀にいきなり、極右翼が存在感をもったのではありませんでした。極右翼が台頭してくる前提に、考えなければならない点は、ヨーロッパの基層に"ケルト"があるというような、非常に懸念された危険な文化的言説があったことです。) 一党支配の官僚資本主義が自らの住処としようしている、オリジナルの「中国的近代」が確立したとする宋代の皇帝制度をいう文化論的な言説にたいする反論をいかに行うのか、これが自分にとって大変重要とおもっています。政治的自由の監禁と、底辺層の不満のことが懸念されますね。たしかに、現在の中国は、かつて帝国日本が世界史の哲学を実現したような、ヨーロッパとは異質である自己像を対抗的にもっていくのかもしれません。しかし同時に、中国はその帝国日本の失敗を知っているはずです。そして異質でもいいのですが、中国が、不可避の他者として、日本の民主主義のあり方ーもちろん未来に向けて現在進行形におけるといわなければ私は絶望してしまいそうですがーに関心を持つときが来ないとは断定できないでしょう。卑近なところから語ると、漢字という書記言語がそうですが、そこから考えることが可能となるわれわれにとっても、中国は不可避の他者。そのとき、他者にこうしなさいというのではなくて、新しく一緒に考えるという方向はないのでしょうか。他者との関係によって、絶えず自己との関係が構築される、このことは、ヨーロッパでもマジアでもおなじでしょう。アジアの民主主義のかくも厳しい現実は否定できませんが