BBCのラジオドラマ

ロンドンにいたときは、ご近所に、キリスト教の人たちがユダヤ教に戻る(?)ための訓練センターみたいな施設がいくつもありました。あの中でどういうことをやるんだ?と、イスラエル人の友人に聞くと、豚を食わないようにトレーニングするとか言っていました。そういうことが基本として大変重要らしいのです。逆に言うと、豚を食うことは絶対にゆるされぬ危険なことというかそういうことを想像しました。BBCのラジオドラマでスピノザの破門劇をやってました。その中で、スピノザシナゴーグの長老たちに向かって、「日中に友人とレストランで豚肉を食べたことぐらいのことなのに、そんなことが非難されているのか!?豚肉を食べるとか食べないとかが宗教の本質と一体何の関係があるんだ!」と怒りだす場面がありました。哲学者は「議論のルールはただひとつ、議論をおわらせないことだ」という内部にいたと思うのですけれどね。多分イギリス人の物の見方を反映したドラマでは、イギリス人が理解する仕方で、宗教と理性の分裂をテーマの一つにしようとしていたのかもしれません。(実際の破門の理由は諸説ありよくわかっていないそうです)。ちなみに、そのイスラエル人に、何で豚肉はダメなの?ときいたら、それはダメだ、人間の遺伝子に近い豚を食べたら人食いと同じになってしなうと答えていましたので、わたしのような無知なものは絶句してしまいました。ここでフロイト的な口調でいうと、宗教は禁止を住処としている、とそう言い切ると、禁止というのは、理由を問われることのない、議論が介入できない領域を構成するのですかね 。『エクリチュールと差異』のデリダはレヴィストロース批判で、禁止は自然か文化なのか?と問うていましたが、さすが哲学者ですね 、議論を終わらせようとはしないのでしょうね (違うの?そういうことじゃないの?ごめんなさい、深夜に飛躍だらけの文を書いて)