泉鏡花

久々に歌舞伎座に来た。三月の歌舞伎「滝の白糸」(玉三郎演出)は、(既に試みがあるかもしれないが)、オペラにできるんじゃないかとおもったほど充実していた。この新派劇は、溝口健二監督「滝の白糸」の記憶を辿りながらみたのだけれど、たしか、溝口作品を見た大島渚がこれを見てはじめて国家というものを理解したとテレビで喋っていた。文明開花の時代を象徴するかのような裁判の場面はリアルである。近代はこういう人物(欣弥)を作り出すことになったということをわたしに考えさせた。白糸は何というか、関係の誠(まこと)を尽くそうとしている。欣弥のほうもかれなりに真(まこと)を求めていたが、ただし国家からする真実にしかならない高さをもつことになってしまう。国家に忠誠を尽くす真実というか。これでは、白糸自身の言葉と存在を消去し尽くすことになってしまう。ここのギャップが伝わってくるのは映画のほうであると思っている。5、ここのギャップが伝わってくるのは映画の方である。最後に、国家からする真実とは何か?現在の私の関心、アジアの思想史的関心に沿って言うならば、国家からする真実とは、「閔妃暗殺」というような帝国主義的文眼開花の国家犯罪を隠蔽してしまうことと両立するような真実であるとだけ言っておこうと思う