‪歴史を正しく伝えることは可能なのか?‬

‪歴史を正しく伝えることは可能なのか?‬


‪わたしはそれはできないとおもいます。歴史を正しく伝えることができるかどうかという問題を考えるために、ここで、歴史上の有名人に登場してもらいましょう。その有名人を正しく伝えることができるかをしばらく考えたいとおもいます。そのことによって歴史の問題を考えたいとおもいます。吉田松蔭を正しく伝えることができるでしょうか。松陰をテロリストだったとする見方に相当な反発があるようです。幕府を倒そうとした彼らは他に方法がなかったわけで、テロリズムテロリズム、それ以上でもそれ以下でもないのです。テロリズムという言葉に過剰に反発をもつ方々がいらっしゃれば、どうも、それはテロリズムを過大評価している所があるのかもしれませんね。問題は、昭和10年代に発明されてくる吉田松蔭像でしょう、それは日本帝国を支える表象の一つになったからです(現在読むと、蘇峰の本は読み物としては中々面白いのですが、昭和10年代にどう読まれたかということは気になります)ところで気になるのは、大杉栄が松蔭にたいするrespectを書いていますね。どうも、明治の松陰像と昭和の松蔭像があったようなのですね。明治の王政復古という謂わば新権門体制は、(オバマの時代にエリートの入り口が広がっただけのあり方と比べるのですが)、天皇、貴族、寺社のほかに、下級武士、官僚、軍人が支配者の入り口が広がっただけでした。時代の要請を裏切ったこの似非改革にたいして、松蔭の名は、変革を求めた自発性のエートスと結びついていたということでしょうかね。その大杉は、しかし皮肉というか、昭和松蔭像の陸軍的軍国主義に先行した甘粕のような人物に殺害されることになりました。松蔭に限らず、歴史上の固有名にたいする複数の視点が存在しているということを思います。松陰は思想家としては存在していませんが、テロリストとして存在したのでしょうが、その松蔭を正しく伝えることなんてできないとおもうのです。誰が「松蔭」を語ったか、言説「松蔭」とはだれにとってどういう意味をもっていたのかならば語ることができます。これが歴史を語るとわたしの構成なんですけど。現在の関心に即していえば、日露戦争を正しく伝えたかどうかよりも、誰が日露戦争を語るのかをきちんと考えたかですね。韓国はいかに日露戦争を語るのかという視点は大変重要な意義をもっていると思うのです。歴史修正主義は「韓国」の存在を消去したいのでしょうが、歴史修正主義とは逆の方向から歴史を正しく伝える立場といえども、<一国知>に制約されている限り、他者「韓国」の見方を消してしまう危険はないでしょうか