ゴダール『映画史』

‪「すべての歴史」「ただ一つの歴史」というゴダールにおける「エテロトピーhétérotopie 」とは、ヨーロッパと対等にある、いくつものの反映画の歴史から構成された「それ自体のうちにいくつもの異質な要素を含む場所」。『映画史』のラストがボルヘスからの引用であったことから明らかである。‪2、問題は、そこで他者イスラムを消したヨーロッパ知との関係を再構成する語りの不安である。空白への怖れは、ユートピア的修辞で読まれた反覆する始原の統一された自己像によっては隠蔽できないようにみえる‬




‬<混在なものエテロクリット>とは何か?


‪「このボルヘスのテクストは、ながいことわたしを笑わせたが、同時に、打かちがたい、まぎれもない当惑を覚えさせずにはおかなかった。おそらくそれは、彼のテクストをたどりながら、<唐突なもの>や適合しないものの接近によって生じる以上に、ひどい混乱があるのではないか、そんな疑惑が生まれたためだったろう。それは、おびただしい可能な秩序の諸断片を、法則も幾何学もない、<混在なものエテロクリット>の次元で、きらめかせる混乱とでも言おうか、<混在なものエテロクリット>という語を使ったが、この場合、それを語源的にもっとも近い意味で理解しなければならない。つまり、そこで物は、じつに多様な座に「よこたえられ」「おかれ」「配置」されているので、それの物を収容しうるひとつの空間を見いだすことも、物それぞれのしたにある<共通>の空間を見いだすことも、ひとしく不可能だという意味である。<非在郷ユートピア>というものは人を慰めてくれる。つまり、それは実在の場所を持たぬとしても、ともかくも不思議な均質の空間に開花するからである。たとえそれに近づいていくということが幻想にすぎぬとしても、それはひろびろとした並木路のある庭園、安楽な国々をひらいてくれる。だが<混在なものエテロクリット>は不安をあたえずにはおかない。むろん、それがひそかに言語ランガージュを掘りくずし、これ<と>あれを名づけることを防げ、共通の名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法」を崩壊させてしまうからだ。断っておくが、「統辞法」というのは、たんに文を構成する統辞法のことばかりではないー語と物とを「ともにささえる」(ならべ向き合わせる)、それほど明確ではない統辞法をも含んでいる。Les hétérotopies inquiètent, sans doubt parce qu'elles minent secrètement le language, parce qu'elle empêchent de nommer ceci et cela, parce qu'elles les noms communs ou les enchevêtrent, parce qu'elles ruinent d'avance la <syntaxe>, et pas seulement celle qui construit les phrases, ー celle moins manifeste qui fait < tenir ensemble> ( à côté et en face les uns des autres) les mots et les choses.  だから非在郷ユートピアは、物語や言説ディスクールを可能にし、言語ランガージュの正当な線上、<ファブラ>(訳注、fabula、ラテン語で「話」の意)の基本的次元にあることとなろう。他方、<混在なものエテロクリット>は(しばしばボルヘスに見られるように)ことばを枯渇させ、語を語のうえにとどまらせ、文法のいかなる可能性にたいしても語根から異議を申し立てる。こうして神話を解体し、文の抒情を不毛なものにするわけである。‬」『言葉と物』p.16 渡辺一民