‪誰がジョージ・オーウェル『1984年』を怖れるのか?

‪誰がジョージ・オーウェル1984年』を怖れるのか?


ヨーロッパの周辺国アイルランドで起きたことは周辺国中国でも起きる。この問題はポスト・オリエンタリズム問題として考える必要がある。西欧近代に対抗する非ヨーロッパ圏の知はこう考える。ヨーロッパは本当にそれほど「普遍」なのか。ヨーロッパも、アイルランドと中国と同様に、「特殊」である。ここから問題は、周辺の国々はヨーロッパの視線から「特殊」を読むということが起きる。そこで、対抗的解釈者達が介入した「読み」の歴史が消去される。そして中心が周辺のために語るといういかにもオリエンタルなケルト像と儒教像が発明されてしまう。と同時に、政治的独立を勝ち取ったエスタブリッシュメントにとって、『1984年』に限らず、「特殊」を脅かす本と映画は危険にみえてしまうというわけである。ヨーロッパ近代から独立しようとする試みが皮肉にも益々ヨーロッパ化を推進してしまうというこのような仮説からどういうことが言えるか?周辺国の民は、これを止めるためには、原初的テクストを読むとき、ヨーロッパ(の解釈)を切り離すこと、そして近傍に位置する国々で行うことが重要なのではないか。‬


「戦略的にかつ最終的に私たちの分析装置を脱植民地化するのに、生きているベンガル人(グハ)と死んだドイツ人(ヘーゲル)との対話を進めることはもはやできない。それよりもはるかに決定的な対話を取り戻すことが必要なのである。それは、私たちの文字的なものと口承的なもの、視覚的なものと遂行的なもの、歴史的なものと現代的なもの、そうした一覧のあいだの対話だ。それを私たちがインドや、イランや、アラブ世界や、南アジア、西アジア北アフリカなどと呼ぼうが呼ぶまいが、私たちはとなり近所どうしなのであり、共通の歴史と、生きている集合的記憶を共有している。それは歴史的に共通しているのだから、植民的に分割することも、パラダイム的に並べて比較することもできない」(ハミッド・ ダバシ)