MEMO

‪‪戦争協力しなかった台湾のシュールレアリスムの詩人達の存在をめぐって議論されることは最近までなかった。なぜか?国家が言説化したこの一国<文学史>の問題は、国家が可視化した集団肖像画?外苑の聖徳記念絵画館における王政復古を物語る一国<アジア史>の問題とパラレル的に等価ではないだろうか


ロラン・バルトが語るパリのストリップ劇場では、裸は脱ぐことによって隠されるという。舞台は即ち仮面。これに対抗する形で、東京における物語の形成を殺すように進行する能の舞台も仮面ではないだろうか。声が声から抜け出ることによって隠されているのは近代であろう。痕跡は声にある‬


Paradox is the pathos or the passion of philosophy. 

Gilles Deleuze



革命が再び起こるべきだが未だ起こらないという、現在のような歴史の側面において、余分なものとしての我々とは、一体何なのでしょうか。近代に思考の全体は政治の全体がそうであるのと同様、革命という問題によって支配されています。

-フーコ、性の王権に抗して-


二十世紀の社会的=政治的な場における想像力の貧困が、一体どこから来るのかとその理由を探ると、マルクス主義が重要な役を演じています。[…]いかにしてマルクス主義と縁を切るかというモチーフが私の思考にとっても根本的なものなのです。-フーコ、世界認識の方法-マルクス主義をどう始末するか-


安倍的ナショナリズムに絶望している知識人達のなかで、私は一人ぽっちだと感じるのは、日本語に「内部」を感じるものが相当にいるからだ。この彼らは、普遍主義的に帝国主義的に、アイルランド英語は大丈夫かと聞いてくる。これは普遍主義(イギリス英語)が特殊(日本語)を住処とするような世界観である。外部にたいする拒絶を構成するのは、安倍ナショナリズムだけではないのである。


証人は、「昭恵夫人は関与していない」と言い切る。どうもこの人物は、安倍夫妻(主語)のために語る言表主体なんだね。いわゆる官僚の紋切り型で、政治的中立を保っていると自らを意味づけしたいようだが。証人が本当の事を言ってるとすれば、政治マターに関わることがなければないほど、どんどん政治的になっていく世の中なんだな、証言拒否のせいでほかのことはわからなかったが、そのことだけはわかった


‪「佐川の勝ち」(自民党議員)ならば、勝者はだれか?安倍に違いない。敗北者はだれなのか?朝日新聞と野党だけではない。自民党に3分2以上の議席をやりなお安倍政権に三割から四割の支持を与える国民、そして最後に佐川だろう‬。しかしまだ決まったわけではない。


誤字あり

A l'époque de Kant et de Hegel, au moment où jamais sans doute l'intériorisation de la loi de l'histoire et du monde ne fut plus impériesement requise par conscience occidental, Sade ne laisse parler, comme loi sans loi du monde, que la nudité du désir. C'est à la même époque dans la poésie de Hölderlin se manifestait l'absence scintillante des dieux et s'énonçait comme une loi nouvelle l'obligation d'attendre, sans doute à l'infini, l'aide énigmatique qui vient du < défaut de Dieu>. Pourrait-on dire sans abus qu'au même moment, l'un par la mise à nu du désir dans le murmur infini du discours, l'autre par la découverte du détour des dieux dans la faille d'un language en voie de se perde, Sade et Hölderlin ont dépose dans notre pensée, pour le siècle à venir, mais en quelque sorte chiffrée, l'expérience dehors?  (Foucault)


クリントン元大統領が"The Guardian"紙に投稿したらしい。ダブリンにわたしが住んでいたときだったが、彼が関与した和平交渉が成り立った、EUゾーンである国境を英国EU離脱によって再び国境問題にしてしまうことの危険性を訴えているとのこと、それはその通りだと思う



タイムラインに流れてきた、あまり理解できていない思想家の言葉である。現在改めてどう読めるか。敢えて言うと、均衡と安定、連続性にかんする二つの真理が問題ではない。同じ時代に共存した二つの言説が問題。もしそうだとしたら、偶然のその共存から一体何が言えるか?‬言説(卑近性を語る語り)と言説(至高性を語る語り)の間の関係が問われるということかな。 ‪「プロレタリアートの問題とは、社会科学を構築することである。ところが、この時代にはもはや近視眼の経済学者と狂信的な社会主義者しかいない」(プルードン『貧困の哲学』)‬ 


考えるとは何でしょうか?考えない存在について考えることをはじめたのは、2011年からです。原発体制の問題をめぐって、(問題を)正すことがなければ考えることができないと思ってましたが(だから相補的に、考えることは自分に対する抗議を為すものですけれど)、同じ学校教育、同じ価値観なのに、考えない存在は、原発体制の問題を考えてしまうと思考一般が成り立たなくなるという風に考えるようにみえるのですけれどね。(しかし現在私自身はこれについては何も行っていないのだから、私は自分が考えることをしているかと自己に問えば、恥ずかしながら、Yesとはいえないでしょう)