漢字論

「<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと」Simone Weil


言葉は宇宙の中心にある<われ>の中にすんでいない。まして、言葉の場所は、ヨーロッパとアジアの間の揺れ動く背景を以って、<彼ら>という排除すべき否定的他者像を包摂してきた地としての<われわれ>ではあり得ない。<われ>と<われわれ>における二つの極に絡みとられてしまうのは嫌である。と、ここで、他者の視線のことを書くの早急かもしれない。回り道をしよう。<われ>と<われわれ>との間の壁を思いうかべるのである。この壁に掛かっている絵画=スクリーンを通じて抜け出ることができないかといつものように考えることになる。これは答えがない問題かもしれない。いま、人生にとって切実なこの問題を漢文・漢字エクリチュールとの関係において喋るのは、『漢字論』を読んでいるからか?漢字は日本語における漢字仮名文で考える思考を構造的に構成しながら、漢字は漢字として成り立つのは、それなくしては思考そのものが成り立たなくなるという不可避性を担っているからである。卑近性(音訓による書き下し文、漢字仮名文)と至高性(漢字で書いた形而上学)とが、場所のないところに、根をもつのは、不可避的に存在する他者においてである。そういう他者は、一国知<われ>であってはいけないし、まして、グローバル知<われわれ>であってはなお、いけないとおもう。『帝国の構造』において強要してくるグローバルな視点に介入させずに、とりあえず、近所どうし、隣の国どうしで、エクリチュールの問題をかんがえてみることはできないだろうか。