言葉

抽象‪「X」だけで考えようとしたら大変難しいけれど、「Xへの手紙」という風に方向づけるならば何とか考えることができるようになる。抽象「X」にたいする「への手紙」という言葉の介入によって、「X」について自己同一的な限定された物の見方から、「Xへの手紙」という限定されない見方が生まれるという過程をなんだか面白くおもう。言葉は方向づけてくれるのである。「X」は互いに遠くにあった物どうしを指示しているとしたら、「Xへの手紙」は互いに遠くにあった物どうしを近づけるかもしれない。この反対に、「X」は互いに隣接している物どうしを指示しているとき、「Xへの手紙」は物どうしを遠くに配置するかもしれない。と、このように言葉を記述することは、言葉を観察することであるとわかってくる。書くことによって、「X」は言葉を住処にしているそのあり方をみているということだ。この意味で、ベラスケスは初めて言葉を描いた画家だったのかもしれない。(と、20世紀のポスト構造主義は発見したのであった。問い提出される。ラングとパロールは本当にそれほど互いに離れているのか?映像と音声は恣意性のなかに本当にそれほど一体をなしているのだろうか?)

昨夜遅くまでかんがえたのは、「事件としてのX」という見方、「不可避のX」という見方、である。そして両者の関係はどうなんだろうかと。‬この関係は無理に統一的に包摂して語るのではなく、寧ろ相補的に語るのがいいだろうと一応の結論みたいなものに達して眠ることができたのだけれど