<イメージ (は) | 脱構築的に解体する| 明治維新150年>

<イメージ (は) | 脱構築的に解体する| 明治維新150年>というテーマで描きはじめたら、奥深く半透明さのなかにいる「王の場所」をどこに再構成するのかという問題を避けることができなくなった。最初は中立化されたイメージを描けばいいだろうとおもっていたが、それほど簡単ではないことが直ぐにわかってきた。「王」が国家の統一が困難であったかということを暗示しているその場所にやってくる前に、何と何が対立するのかという物の見方、シナリオが既に確立されていたようだ。だけれど「王」はどこから来たのか?天皇の象徴性は江戸時代においてのほうがよっぽど成り立っていたという津田の分析があるが、表象されたその「王の」は文化の中心(京都)から政治の中心(東京)に連れて来られきたのである。近代の入り口において、もはや表象の力は消滅している。近代とは表象に実在生が与えられなければならない時代である。そうして、表象「われおもう」は政治の中心に「われ存在する」。「われ」に、至高なもの(「天皇」) と(それを仰ぐ)卑近なもの(「国民」)が一致させられているとき、イメージは読まれる言説として透明になっていく。「われ」は表象関係の中心に再構成された「われ」の位置から新たに何を知るのか?「われ」は何を知り得るのか?何も。政府を無責任にする一方で無限の政治責任を負わされることになる、五箇条の御誓文のほかに、何も知ることができない。では、「われ」は何を欲するのか?というか、何を欲していると物語られるのだろうか?今週の昭和思想史講座で論じられる問題だが、イワクラとオオクボの既得権を隠蔽した、天皇を騙し国民も騙した彼らの国家だろうか?最後に、「われ」は何を目的として生きるのか?戦争する国家なのか?つまり、西欧国家クラブの入会条件「政教分離」の裏側にある祭政一致、言い換えると、戦争する国家を祀る国家(表象を祀る表象)か?