漢字の話

簡単には読めない本であるが、「仁斎論語塾」のおかげで、一定の問題意識をもって読めるようになった。いわば死に切った過去にすんでいる、古代のテクストを何とか読むために、読まれ得る連続性を前提にしてよく読むために、現在が日本語と読んでいるものが自分との関係を再構成していくプロセスを想像させてくれる。だが問題は、隠蔽されることなくかえって隠蔽されているヨーロッパの視線である。現代中国語すら読めないという「専門家でない」私の印象だけれど、2500年の距離が消失してしまうような、ただヒューマニズムと文明論的背景の知識の保証をもって、ヨーロッパの言語学が漢文の話をしていると時々感じるのはそれほど的はずれではないだろうとおもう。透明性と圧倒的説得力をもって語る吉川幸次郎の近代とはなにか?文献学の近代とは何であっったのか?それは、過去を半分死んでおり半分生きているとみる視線をおもう。しかし私の関心は、死に切ったところから繰り返しはじまる書記的原初性にある。『漢字の話』のページをめくりながら、朱子のテクストをめぐる徳川ジャパンの思想闘争と一体となった漢字の存在に対する切断を読むことの意味を考えているのだけれど