形而上学

‪「存在するものは存在する。非存在者は存在しない」に言い表される形而上学の危機は、異邦人が「非存在者が存在する」と問うときに起きるのだろう。間違いを怖れずにいうならば、わたしはこう考える。非存在者との距離についてならば、共同体はこれを祭祀によって知っている。と同時に、知らないのである。祭祀は死者が共同体に属さぬ異邦人となるような距離を隠蔽するからである。(身は地に帰すが、魂は天に伸びる。いつかは消滅するが、非常に遅れるのである。だから祭祀に意義があると物語る言説によって。) さて問題は、共同体は非存在者との距離を理解できたとしても、距離の意味を考えることができるのだろうかー生者の異邦人から問われることがなければ。「非存在者が存在する」と問う他者によって共同体は自己との関係を問い直すとき、自然哲学が成り立つのはここのほかにない。結局、存在をめぐる対立する二つの真理があるのではなく、互いに無関係な独立した二つの言説が共存するのである。異邦人は問うとき、そこで自らを問うことが避けられない。言説「存在するものは存在する。非存在者は存在しない」を住処とする共同体にたいして、言説「非存在者が存在する」と異邦人は自己防衛するのである。