二元論的思考なき思考は可能か?

‪二元論的思考なき思考は可能か?生だけだとする一元論は「詩にしかならない」のではないのか、と、「論語塾」で問題提起された。子孫へと永久に生きていく生命を語ることになるのは、人の有限性の経験の意味がなくなる感じだ。ここで鬼神論の消滅を消し去ることの問題を考えたー



‪「仁斎論語塾」で問題提起されたことを夜中に考えていたが、あまりにもまとまらなかったので、昼に書こうといま書いている問題がある。哲学は詩を以って概念を書くことができるのだろうか。一元論の思想を展開するドゥルーズは詩を書いているみたいだとよく言われるけれど、(そうだとして)その詩は最初から最後まで二元論に拠って考えている。(『アンチ・オイディプス』のポスト構造主義はアンチ・オイディプスにおける二元論を以って、構造主義におけるオイディプス的な二元論を批判しているのではなかったか。) さて「なにをもたないとなにが成り立たなくなるか」について思想史は分析する。たとえば、12世紀思想に消滅をめぐる唯物論的視点がないと、17世紀思想に、12世紀の物の見方のなかにあってこれとは異なる見方をしようとするとき、一元論を物語る詩において二元論的に考えることが成り立たなくなる、というふうに思想史は見渡すとわたしは理解している。とりあえずの結論を示すと、一元論を物語る詩は、唯物論的視点をともなわないと、考えることができない。そのとき詩は、シェーンベルクのオペラがみせたモーゼにたいするアーロンのように想像するだけである。