MEMO

これほどとはおもわなかった。最初から問題にすべきだったのは、「憲法超自我」の現前などではなく、どんな倫理的非難をうけても退くことがない「安倍の超自我」の怖るべき不在 

漫画はちょっとなあ。また『政談』より『弁名』が面白いとおもっている。しかし仁斎と宣長がいた場所はわかるのだが、徂徠は何処にいたのかはっきりわからないよなあ、と、東京タワーを見るのであった

組織のおじさんたちが他者を手段にする通りに反応して行動したらどうなるのか?やはり自分の問題として考えなかったとしたら、事件から何も学んでいないといわれても仕方ない



上野の美術館でやっているベラスケス絵画を中心とした17世紀スペイン絵画の展示。壁に書かれた用意周到な説明を読んでは作品を見る。17世紀の時代、芸術理論、知識、技法、神話、肖像、オブジェ、宮廷、風景、神学、宗教が絵画を住処としているということをあらためて実感したのであった... 

le monde était lá

映画の歴史でなければ投射できなかったものとは、映画が<映画をみる人間>を発明するとそれ以降、人間はスクリーンに先行するもの、その外部にあるものを思考の形式を以てしかみることができなくなったという歴史である。暗闇に形而上学が呟くー 見るまえに、投射されないものが投射されいるとしようと

必要なものがまったくない。要らないものばかりだ。必要のない曖昧な映像。必要のない明確な文。だけれど明確な映像に曖昧な一文だけというのがみつからない


le seul lieu où la mémoire est esclave
語る場所などありはしないのに、
場所は自分に存在しないのに、
記憶が囚われている唯一の場が存在する
といわなければならないとしたら
それはなんというか、形而上学的なのだろうか...

イスラエルは最後の西欧帝国主義の要塞でもあるまい?百年後を考えよ!アラブ人全員の承認をもたないから国家として成り立つことがないままだろう。ユダヤ共同体が重じてきた教育の伝統を他者と共有して何とか生かして貰えとおもう


16歳のときに100円ぐらいで買ったデカルトの本はまだある。デカルトについてはフーコ3部作のおかげでなんとか意識し続けている。驚くべきことに、カントは、17世紀アジアの啓蒙主義的思想が発見させてくれた!遠くに行く必要がなかったのだ。ショーペンハウエルについては、本に読まれず自分の頭で考えよとコンパのときに励ましてくれた大学教授がくれた本が何処かにある。結局、先行するもの、外部のものといった他にいかに負うているかを自己について知ることになった。アートにオリジナルなものがあるかもしれないが、ーポストモダンの時代に生きるものとしては大変シニカルだけれどーなににしても自分の頭ではそれを知ることが不可能なのではないか。それでもなおオリジナルを至高なものとして重視したロマン主義の言説とは一体何だったのか?過去の文献を調べてみたい気がする 


洗礼には色々な形があるようです。父からきいた一高時代の寄宿生活の思い出として、Sturm(嵐)とよばれる、不潔な先輩たちによる議論の襲撃が新入生にたいしてあったそうです。「デカンショデカンショと雨がふる」<ー 嗚呼、旧制高校原住民の雨乞いでしょうか! ‪「言語とは、人間にとって最も自明な何かである。素朴な話し手が母語を話すとき、話し手は、自分が何語を話そうと意識して話しているのでもないし、また文法家がするように、その母語の規則をひきあてながらことばを発しているのでもない。そのような話し手にとって、自分が「oo語」を話していると教えられる知識そのものが本質的に疎外された知識であろう。この意味において、ある個人が、自分がoo語あるいは「国語」を話していると教えられ、意識させられるとたんに、人間にとってのことばの新しい歴史が、すなわちことばの疎外の歴史が始まるのである」イ・ヨンスク

‬ le cinéma projetait et les hommes ont vu que le monde était lá un mondé encore presque sans histoire mais un monde qui raconte ー Godard histoire(s) du cinéma


エドワード・サイードという名を口にする者がいなくなったのは、責任を取らなければならぬ知識人になるよりも、責任をとらなくてもすむ文化人になりたい人達が多いからではないか 


『こことあそこ』(ゴダール)は、「ここ」で誰が「あそこ」のために考えるのかと問うた。「ここ」は表象の限界だ。表象は表象できないとき、世界中の「ここ」が「あそこ」を盗む

日本の報道の世界ランクは72位、アジアでは、韓国、台湾、モンゴルより低いんだって

始まりと終わりがあるという前提だが、『ユリシーズ』が書き始めるのはマーテル塔から。あの形は、『朱子語類』における思考の優先順位としての形而上学的円(理=大極)か?冗談で、
6月16日まで読んでみるか

‪昭和十年代の天皇ファシズムは、明治維新王政復古(天皇政治責任をもたせて政府を無責任にした)に遡る。批判の視点をもつためには、17世紀政治革命と近代イギリス議会主権(三権分立)の理念的あり方だけでなく、中世マグナカルタと近世エクイティー(貴族と僧侶の王権に対する闘争)も重要な意義があるよ‬

Irlande : la mairie de Dublin hisse le drapeau palestinien en «signe de solidarité»

安倍が中近東に訪問したあとに、今回のイスラエルの市民にたいする無差別殺戮が起きている...偶然だろうか?

When we are born, we cry that we are come to this great stage of fools. 
ー William Shakespeare, King Lear

フェースブックはおわった、イメージブックがはじまる

20世紀の夜明けには、こんなことが起こっていた。テクノロジーは生を複製することに決め、そこで映画と写真が発明された。だがモラルはまだ根強かったので、生命からそのアイデンティティさえも抜き取ろうという抹殺に、弔意が表されたのだ。だから喪の色である黒と白とともぬ、映画術が生まれたのだ。
ゴダール、映画史翻訳集団2000


「対話に支障」と、意見の自由はあるが公にいるときは喋っている内容がどんな影響をもたらすのかもよく考えながら喋りなさいねと叱られているみたいじゃない。今回に限らず、「対話に支障」をもたらすヘイトスピーチの最大の問題をあきらかにした言葉ではないかと気がついた。アメリカに圧倒的ヘゲモニーがあった時代ではなくなってきたし、トランプの当惑にあらわれているように益々そうなっていくのだから、アメリカを背後にもったヘイトスピーチするしかない国家の成立はアジアでは不可能だろうと思う。長期的視点に立ってこれからは、近所(アジア)の関係のことは近所(アジア)自身でもっと自発的に努力していかなくっちゃなあという時代ではないか