‪ <image | deconstruct | Meiji Restoration 150 >‬ ‪‪

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「凡そ世(世界)になりとなる(生々)万物(人は更なり、禽獣虫魚にいたるまですべて有生のたぐひ)尽く、皆道によりて生り出づ(道のことは下にいへり)。道ある故に、世にある万物は生り出たるものなり。」「いきとしいけるもの(生活するもの)皆、道を行ふによりて活(い)く、世に生活するほどのもの、道を離れていけるものは更にあることなし」(鈴木雅之)。‬

‪さて明治維新は「生成の道の根元性」(鈴木雅之)をもっていなかったから、「いきとしいけるもの(生活するもの)皆、道を行ふによりて活(い)く」ことが成り立つことがなかった。そうして「神宮親謁」(明治2年)、「靖国神社行幸」(明治28年)からもたらされてくるものは、昭和10年代に向かって、戦争する国家が自らを祀るというような祭祀一致の体制である。そこでは「生成の道の根元性」がなく、他を排除し尽くす純粋な起源しかないから、「いきとしいけるもの(生活するもの)皆」が絶滅する危険があった‬のではなかったか

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‪即位礼を説明したこの文も、嘘のナレーションの類いである。ここで、古代に「わが国の様式」があったのか、なかったのかを論じても仕方ないだろう。寧ろ大切なのは、誰がこの嘘のナレーションを語るのかを問うことである。近代が近代自身のあり方を物語っている。近代は、自らのアイデンティティを求めて過去に向かって無限に遡っていくが、そこに幻想の主体を確立する。幻想は深く、他者はそれをみとめると、生命、財産、魂の一切を現前する主体にささげなければならなくなるほどである‬

‪「『即位礼』とは、天皇皇位を継承したことを内外に示す儀式。この絵は、その模様を描いたもので、高御座の中におられるのが天皇です。この即位礼の翌月に、元号が「慶応」から「明治」へと改められました。」「これ以前の即位は中国の様式で行われましたが、新しい方針に基づいた体制が始まることから、わが国の様式に替りました。」‬