名づけること

当然のこととして、‪『ユリシーズ』(ジョイス)には現代世界に存在しない古代ギリシャの神々にかかわる名がある。意外にも、『名づけられないもの』(ベケット)にも架空の土地の名があったりする。『映画史』(ゴダール)は、プルーストが反復させる女の名のように、敢えて消滅したといわれる数々の映画の名が告げられるのはいったいなぜなのだろうか。名づけることとはそもそも何か?共同体のために名づけられぬものに名を与えた他者の存在を考えないわけにはいかないわけだけれど。その他者は、近代文学のように無限の抽象的人格なのか?多分否である。だけれど、反近代がどうしても共同体の中にうち立てたいとするような、それほど有限な具体的他者でもないとおもう。他者は分類できないような、したがって名づけられないという他者なのではあるまいか。比べると、近世における古代の他者について語った言説は単純に他者が存在したといわれているような気がする。先行するもの、やはり思考の優先順位にかかわることというか。ああ、わからないな...