プロパガンダ研究 ー <image | deconstruct | Meiji Restoration 150 > ‬

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聖徳絵画記念館の作品はそれぞれ、建築と人間の関係を表現した視点をもっている。どれも文を説明しているためにあるような絵だ。『教育勅語下賜』(1890)の説明を読んでみよう。これによると、「『教育勅語』とは、全315文字からなる国民道徳の基礎を説いたもので、天皇の著作として位置づけられています。教育勅語を賜った総理大臣の山形有明と文部大臣の芳川顕正が、御座所から退出する場面が描かれています。」とある。だけれど絵は必ずしも饒舌に喋らない、ナレーションが語っているようには。中には、沈黙している絵もある。これはそのひとつかもしれない。臣下に教育を与える皇帝が見えない奥に存在しているなどと深読みする必要はまったくないのであって、<鞭>の意を含んでいる「教」はだれが国民に押しつけたのかということについてはこの絵はちゃんとその権力者たちの姿を示しているではないか!‬


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‪絵のタイトルは、「病の岩倉具視をお見舞いになる」(1883)。説明文によると、岩倉はこの翌日に死んだという。わたしの想像だけれど、いきなりあらわれた死神のような立ち姿。それにしても絵がかれた女性の身振り・ジェスチャーが大袈裟じゃないか?もう顔がみえないほどである。というか、顔を描かないのは、共同体の物語を強調するために、パーソナルな(個人的な)物語りを消すための常套的なやり方なのだけれど。これは一体何だろうか?もちろん、天皇制支配を支えた最大のイデオロギー的支柱が<家族国家>観であることはよく知られている。ここでイ・ヨンスク氏の文をひく。「<家族国家>観のもとでは、一方では国家支配のなかに心情的親密性がもちこまれ、他方では家族が支配と服従を教え込む国家の小模型となる。(・・・)国家が危機に直面して、国民意識の高揚が叫ばれるときには、国民全体がひとつの統合された家族とみなされることはめずらしいことではない。けれども、日本における<家族国家>観は、きわめて素朴な日常にまで浸透した点、さらに、家族のなかの水平的な関係はまったく無視され、<忠孝>を軸とした親子の一方向の垂直関係のみが支配的であったという点で、やはり特筆すべきものである。そして、この垂直関係の頂点に天皇がいるわけである。そして、この<親子>の垂直関係においてかなめをなしたのは、じつは権威と規律の象徴としての<父>ではなく、情愛と慈悲の象徴である<母>であった。なぜなら、<母>は、どんなに暴力的で残酷な国家権力の命令でさえも、献身と慈愛に満ちた情愛的関係に変換できたからである。」(「国語」という思想)。‬


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‪絵のタイトルは、「英照皇太后とともに能楽をご覧になる」(1878)。近代と伝統の調和?冗談でもなければ、近代が過去の伝統をみまもっているとは思えない。近代とは古典のそのままを読むことが不可能な時代である。近代が無限の過去から自己を正当化する自分の分身をみていく方向しかみえないのだけれどね。(正直知識をもっていないが、机上に今日ならば解説のパンプレットみたいなものもおかれていないのは、声がもっと分節化されていたというか、幕末当時は言葉をわかりやすく伝えてかなり意味がわかったのではないだろうか)‬


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帝国議会開院式臨御」(1890)

‪どうして時計が二つもあるのか?アイルランドは、ーオーストラリアもそうだと聞いたがー街に時計がない。公に時計を置くのは表象<イギリス帝国主義>だからである。それほどリアルに描かれてはいない。「キルケ」の館のマリオネット‬

‪昭和十年代の天皇ファシズムは、明治維新王政復古(天皇政治責任をもたせて政府を無責任にした)に遡る。批判の視点をもつためには、17世紀政治革命と近代イギリス議会主権(三権分立)の理念的あり方に重要な意義があるよ‬