ゴダール

昨夜は『ザ・ガーデイアン』誌のレビュー記事を読んでいたら、ゴダールが中国で受けていることを知った。理由はわからない。ゴダールは、現代アートの他者とのコミュニケーションを確立しようとする<反表象>と伝統(過去の映画)を重んじる<表象>との中間に彼の位置をとってきた。この中間が受け入れられているのだろうじゃ?大変興味深い。ゴダール映画の場合、直にコミュニケーションのために役立たつというよりは、世界を読むために思考手段としての映画の意義が重要であるとされる。わたしは映画におけるこの中間の位置の意味を、見ることの自明性すら疑われるこの悍ましい時代にあってなお見ることと信じることの意味を問うこと、あるいは映画の他者としての不可避性を読もうとする。このことは、帝国主義の時代における漢字をめぐる「国語」の理念の差異から生じた新しい言説と重なることを今朝どうしても指摘したい気持ちになった。非国語(非日本語)圏の住民とのコミュニケーションのために国語(日本語)を改革しようとする考え方と、伝統文化を重んじて国語(日本語)をそのままでいいとする考え方があったが、改革派と保守派の中間は、言語の限界を読む言説と表象の限界を読む言説の中間であるといっていい。両端に固定されているどちらの言説にも行く多様性をもつ、ほかならない、メビウスの輪の結び目的な中間においてこそ、他者との関係によって自己の言語との関係を再構成する言説ー漢字の他者としての不可避性と呼ぶべきものーがひらけてきたのである。(粗い整理で本当に恐縮であるけれど、それほど間違った理解ではないことを願っている。) 子安氏の全集の中で「漢字論」(2003年、岩波書店)も中国語訳される。