未来を思い出せない部屋ー1968の「侍女たち」

‪未来を思い出せない部屋ー1968の「侍女たち」


五十年前は、王であったサルトルは追放されて学生と市民の方にいる。(フィルムをいれわすれた)撮影中のゴダールを街頭でみつけた。さて実際はこの部屋のバルトをはじめ人物たちの視線はバラバラである。そのなかでラカンは配置を観察している。が、誰が描き始めようとするのか、あるいは描き終わったのか。外部の人物がなかにはいってこようとする透明のスクリーンはそれほど透明ではない。生憎、絵の中に画家の姿はないが、アルチュセールがフーコに彼のことをきこうとしていることを思い出して、われわれが見ている位置からデリダあたりが描いているのか。いや、書いているのだろうか?レヴィ=ストロースは主客としてフーコを迎えているようにみえるが、単純ではない。現実は、デリダレヴィ=ストロースを問うているのである(人文科学のディスクールにおける構造と記号とゲーム。) なぜ、ゲームが必要とされてきたのだろうか?このことが近代の限界を問うことになるのはずなのだが。思考の限界をなす言語の端における反復なき反復(差異)をより持続させるために、反復が同一的に反復していることがともなわれる。30年後にフーコのテクストをひく映画のなかでゴダールは言うではないか。「何も変えてはならない。すべてが違ったものとなるように」(ブレッソン)‬