常に解体されていくトータルな現れ

‪トータルな現れを自らの視界において思考した哲学は大切なことを語りました。この哲学をよく考えるためには、それを語った廣松渉その人を思い浮かべなければよいのです。(そうでなければ、「何々でなければ人間に非ず」という人間主義のエリート性に絡み取られることになる。だかそれは可能か?明治維新から人間主義とエリート主義は一体かもしれないとしたらこれはこれでひとつのテーマだろうけれど。)さて廣松のあの書き方に示唆されるように、(と書いたところで、わたしは読めなかったし読めないだろうけれど)、ドイツ語で読んで数学・物理学を考えるというようなモデルに尽きるというわけではないでしょう。高度な意味において普遍的に、アジアのコンテクストで考えてみることが重要とおもいます。自然哲学の確立した見方のなかで(それとは)異なるものの見方ー近世の学としての道徳学ーが成り立ってくるときはトータルに成り立ってくるのですね。この変化の後に、道徳学を批判した政策学(制作の学)において言及されるとしても、自然哲学は同じ意味の過去の姿をもっていないのは当然ですね。これと同時に、社会的関係としての権力関係の変化もトータルに起きてくるとおもわれます。自然哲学は時代の中心にいた貴族と僧侶が読んだし、道徳学は台頭する町人が獲得していくものでした。時代をになう武士は制作の学にアイデンティティをかけたことをわれわれは知っています。そうして、トータルに現れてくると言われるようになった知の配置と社会関係の配置は、時計仕掛けに進行するのではなさそうです。他者との関係によって自己との関係が再構成されてくるのは、歴史に対する緊張をもってなされてきたのです。‪‪明治維新の近代が消去しつくそうとしても消去できないことは、戦争の混乱と文革で破壊されてしまったとしても、アジアにおける不可避の他者として、常に漢字があり形而上学の『朱子語類』があり、そこで人間の存在が人間の存在として成り立つことを問いた記憶。これは、痕跡としてかならず残るのだと思います‬。最後に、新しい経験を経験するためには、過去の姿を発明していく必要があります。そうでなければ、系列としては成立しないただの断片の差異化があるだけか、化石になるしかない同一性の反復が反復される悪夢だけではないだろうかとかんがえております。


講義の感想ですけれど、宮廷の貴族知識人と五山の僧侶、北畠親房などが『朱子語類』を読んでいたというんですね。権門体制を壊す「応仁の乱」が朱子学に京都の外へ散逸していく分子の運動を与えた、そういうふうに理解できないかと考えてみました。朱子学は重くしっかりとした体系性の否定的イメージをもっているとしたのは明治。このことを子安氏が指摘されました。明治という新権門体制が朱子学をあたかも区画化された空間で覆ってしまったということでしょうか。現在なぜ漢字書き下し文の『朱子語類』を読むのかをかんがえるときここからですね。江戸時代に読まれた『朱子語類』の読みに、なんとか、軽さと外部性を与えることによって、安倍政権が取りかえそうとしているような明治、これしかないといわれる一国知が物語るひとつの歴史を解体できるかもしれません。