戯曲を読む

タイムラインに「戯曲を読む」企画の告知が流れてきた。なぜ「戯曲」なのか?「戯曲」とはなにか?「戯曲を読む」まえに、「戯曲を読む」を読む必要はないだろうか?「戯曲」といえば、渡辺一民氏はチェルノブイリの映画を観たときカメラがもつ生き生きとした力のことを語ったときのことを思い出した。比べると、演劇はどうしても戯曲が定位するロゴスにとらわれる限界があるという。もちろん映画が真実を伝えるというような素朴単純なことが言われていたのではない。私の理解では、言説を沈黙させる映像、言説を沈黙させる事件性のことをかんがえようとしていたのだとおもう。このとき私は、それでも氏が演劇を観つづけてきた理由をききたいとおもったが、もうこのことは聞けなくなった。だから自分で考えるしかない。おもうに、考えようとしていることは、戯曲にかぎらず、法の言葉(判決文)とか、なにか、書かれた言葉の問題にかかわる普遍的な問題だろう。書かれた言葉にすむロゴスは亡霊かもしれないね。亡霊が現れることなく亡霊が亡霊としてあること、ロゴスが多様な可能性としてあること、このときハムレットは存在しないものが存在するのではないかと自由に思考できる。(亡霊は父の父、シェークスピアだったとジョイスはステイーブンに考えさせようとしていたが)。戯曲を読むときなにが問題となっているのがはっきりしてくることがよくあるのは、ここである。to be or not to be と言われるような、存在するかさもなければ存在しないかという二項対立から逃れられるからだ。亡霊に亡霊性を与えること(観念に観念性の自由を与えること)。他方で言葉を声に出すとわからなくなるのは、存在のヴェールで覆ってしまうかのようにである。亡霊が現れるとハムレットはわからなくなるのである。声を出して戯曲を読むことの意味は、三つのことを考えることにあると私はおもう。声と存在に還元されない書かれた言葉の力、書かれた言葉の他者性を消していく声と存在の力、そしてこの両者の中間にあるロゴスの力ー思考の優先順位として思考の形式、先ずロゴスがあるー