思想の所有を考える

思想の所有を考える


思想史という自分の関心に引き寄せてこの問題を考えますと、思想は常に「家」の独占物だったと思うのです。長い歴史において学問が読むことができた貴族・僧侶・寺社の独占物だったようにですね。だからこそ解体しなければなりません。そうしてはじめて、思想がすむ「家」は、屋根と床がなく壁も柱もないような外部から非常に侵入されやすい場所(非場所)としてあらわれてくるのではないでしょうか。失うために失うことができるというふうに。思想史の視野からみますと、確立した物の見方と異なる見方だった新しい思想は屋根と床、壁と柱をもつときがやってくるかもしれません。つまり確立した物の見方となっていくのですのです。中世の貴族と僧侶が読み解いた朱子学の解体から、近世町人が学ぶことによって(読むことによって)新しく作り出した道徳学の成立のようにですね。これはなにか、歴史が、何かを獲得するために何か失っただけだったというふうに展開していたようにみえるかもしれません。しかし歴史はまさにそこから、再び失うために失うことができるのです。

これについて、徂徠、宣長、篤胤、水戸学派後期のことは論じられてきました。ここでは先週の講義で勉強した19世紀の横井小楠をとりあげてみますと、儒者の彼は仁斎と朱子学に言及しながら彼の前に誰も語らなかったことをはじめて語り出すのですね。天下の「公」に向かって国は拡充せよと (『万国を該談するの器量ありて始めて日本国を治むべく、日本国を統摂する器量有りて始めて一国を治むべく、一国を管轄する器量ありて一職を治むべきは道理の当然なり。公共の道に有て天下国家を分かつべきにあらねど、先づ仮に一国上に就て説き起すべけれ共拡充せば天下に及ぶべきを知るべし』) 明治維新を批判した横井小楠の思想、ここに、近世と近現代の思想的接点があるようにおもわれます。

最後に、読むことはその時代の力にほかなりません。プルーストの『失われた時を求めて』を読んで考えていたことがデリダによって的確に語られていました。読むという行為は、あたかも思想が話したり書いたりする行為に穴をあけること。この穴を通って私は私自身から逃れるということなのですね。反時代的に、なんとか別の読み方を行うことによって、逃げ去るというか、時代と対等な位置を持つというか。依拠していた思想が「家」の所有になってしまったら、例えば柄谷行人の思想がそういうものですが、これを解体しなければならないだろう、そうでなければ自分はやっていけなくなるねと考えています。