ゴダール

‪『映画史』は、言説とは何かについて理解をもっていないと、全体像の理解が成り立たないかもしれない。私はどうか?少なくともそれがゴダールの言説の歴史という性格をもっていることをなんとか理解している。だけれど多くの言説を読み解けないままでいる。「映画は写真の後継者」と言われている。その意味は道徳的なものである。これを解釈するためには、19世紀の芸術としての写真のあり方を巡る賛否両論があったことを知る必要がある。レッセフェールの資本主義に対抗して、芸術の起源とモラルと独立性を発見しようとする言説はレンズの意味を問うた。絵画として、又はその代替物として、国立美術館に、写真が展示される日が将来やってくるかもしれない。そのためには写真は芸術とならなければならなければないと。ゴダールは、『複製技術革命』のベンヤミンを読んでいる現代の感覚からすると保守的にみえるその写真の言説を再び語りだす。とはいえ、写真について新しく語りだされようとしている誰も言わなかった言説をあたかもずっと前から言われてきたかのように偽装しているのだけれど、そうしてグローバル資本主義の時代と等価のものをスクリーンに指示しようとしているわけである。スクリーンは起源のないもの、彼にとって、スクリーンは喪衣である、理念的な意味で。この意味は益々、形而上学的になっていく。時々呆然としながら、言葉、言葉、言葉... 語られていることをその通りに聞くしかない映画は死に対する感覚をもっていてモラルも非常に強かったので、カラーからはじまる出発を拒んだほどだと物語られる。(しかしわたしは白い喪衣といわれても実物を見たことがなかったのだけれど、平家物語のキャラが出てくる能の舞台ではじめて神々しく呈示されているそれを窮屈な思いで見ることに。大島渚『儀式』の場面のなかで愚鈍に示されていた喪衣を思いだすほうがいい)‬